RADWINPSの件や被告人の手記の件。表現すること自体への批判の怖さと「表現の自由」との関係について。

今月(6月)に入ってから、RADWIMPSの曲の件や、相模原の障害者施設殺傷事件の被告人による手記の件について、表現の自由に絡めた議論が起こっています。

RADWIMPS「HINOMARU」に批判、“愛国ソング”は本当に悪なのか? | ORICON NEWS(2018年6月22日)

障害者殺傷事件 被告の手記掲載の本出版へ 抗議の署名提出 | NHKニュース(2018年6月21日)
※追記:6月26日に出版されたようです。

おもな主張は、ある表現について、「○○のことを考えたら●●という表現はすべきでない」という批判がまず起こり、他方でこれに対し「表現の自由があるのだから、表現をするなとは言うべきでない」という反論も起こり、さらにこれに対して「表現の自由があるのだから、表現をするなという表現を行う自由もあるはずだ」という反論が起こる、といった感じです。

どの主張にもそれなりに理由がありそうで、議論は盛り上がっていますが、何だか議論がかみ合っていない様子です。
表現の自由は国家に対する権利であって、本来は国民同士の問題で出てくる話ではない、ということが誤解されているのです。

むしろこの問題の本質は「保障されている表現の自由を放棄してしまうことに問題はないのか」という点にあると考えていますが、どうやらこの視点からの議論はあまりなされていないようです。
(法律関係者は別ですが)

そこで本日は、そもそも表現の自由とは何なのかについて基本中の基本をおさらいするとともに、上記の議論がどう噛み合っていないのか、またこれらを踏まえた上での私の考えを述べたいと思います。

 

表現の自由とは

表現の自由とは、いうまでもなく国民が表現行為を行うことを国家から規制されない権利であって、憲法第21条に規定されています。

第21条
(第1項)集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
(第2項)検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

なぜこれが認められているのかというと、一言でいえば、自由に議論できる場があるからこそ、真理に近づくことができると考えられているためです。

特に、国民が自ら政治のあり方を決定するという民主主義社会では、表現の自由があることが大前提になっています。
(逆に、独裁国家では表現の自由が制限されていることが多いですね。)

思想の自由市場

この「自由に議論できる場」のことを市場にたとえて、「思想の自由市場」といったりします。
ある表現(主張)の価値は、自由競争がはたらく市場の中で判断されるべきものであり、この競争によって価値の低いものは淘汰され、結果としてよいものが残るという考え方です。

例えば電化製品の市場であっても同じですよね。
自由に製品を作って売ることができるからこそ競争が起き、それがより良い製品の誕生につながっているわけです。

思想の自由市場においても、さまざまな主張や意見などが表現されるため、もちろん中には価値が低そうなものや、他者が不快に思うようなものも混入してきます。
しかし、それらをひっくるめて市場の中で議論・判断されることによって、結果としてより有益なものが残るわけです。

市場にはこのような機能がありますが、それは自由な議論を行えるということに支えられています。
したがって、市場が機能するための大前提として、市場への参入は自由でなければなりません

そのため、国家が参入を規制することは禁じられているわけです。

「思想の自由市場」という観点から見ると、表現の自由とは市場に参入することを国に禁止されない権利だと言い換えることができます。

例外(表現の自由を規制できる場合)

ただし、表現の自由にも例外(限界)はあります。
ある表現が他者の人権(例えば、プライバシー権や名誉権などの人格権など)を侵害する場合には、その人権を守るために、国が一定の表現を規制することができます。
実際に、例えば名誉毀損、プライバシー侵害、信用毀損、業務妨害、わいせつ物頒布、児童ポルノ販売などにあたるような表現行為は、刑事罰や民事上の損害賠償責任の対象となります。
(※「プライバシー侵害罪」という犯罪類型はありませんが、一定の場合は名誉毀損罪として処罰されています。)

市場における競争に任せていては回復できないような人権侵害がある場合には、その人権を守るために国が規制をする必要があると考えられているためです。

ただし、その規制は最小限度のものでなければなりません。
なぜなら表現の自由はいったん侵害されると回復することが難しいからです。

ある表現を規制するということは、その表現を議論の場である市場に出すことを禁止することです。
そうすると、一度規制された表現(意見や主張、作品など)はもう議論の場に出てくることができません。
すなわち、二度と議論の対象になることがなくなってしまうのです(もちろん現実には絶対不可能というわけではありませんが、かなり難しくなるでしょう)。

この意味で、表現の自由には不可逆性があるといえます。
そのため、国家による規制は慎重であるべきだと考えられており、手厚く保障されているわけです。

ポイント

いずれにせよ、表現の自由とは、国家との関係において問題となる権利であることに注意が必要です。

 

議論の構造

前置きがずいぶん長くなりましたが、ここで、冒頭に挙げたRADWIMPSの件と、殺傷事件の被告人の手記の件に関する議論の構造をみてみます。

まず、

・アーティストが、ある歌詞の歌を発表する。
・被告人が自分の考えを綴った本を出版する。

という最初の表現があります。

そしてこれらに対する反応や意見(特に否定的な意見)は、次の2種類に分かれます。

1.内容に対する評価・批判
(内容がいいor悪い、素晴らしい、つまらない、何をいいたいのかよく分からない、など)

2.歌を出すことや本を出版すること自体への批判
(このような歌は出すべきではない、このような本は出版すべきでない、など)

そして、それぞれから議論が派生していくのですが、この2種類の議論は、次元が異なる議論であることに注意が必要です。

 

内容に関する議論

まずは1.に関する議論(内容に関する議論)について。

表現の自由のもとでは、いかなる意見を主張することも自由です。
侮辱的・攻撃的・威圧的な言い方を好む人もいたり、単に個人的な感情を吐き出すだけの人もいたりしますが、そのような意見も含め、「思想の自由市場」の中で大いに議論され、競争されるべきです。

歌や本を出した本人は激しい批判にさらされるかもしれませんが、それこそがこの自由市場が機能している証です。
もちろん、本人もこの自由市場の中で反論を行うことができます。

 

発表すること自体に関する議論

では、2.に関する議論(発表すること自体に関する議論)についてはどうでしょうか。

表現の自由に関する誤解

まず最初に指摘しておきますが、表現の自由のもとでは「このような歌は出すべきではない」「このような本は出版すべきでない」という主張を行うことも完全に自由です

これを国家がやってしまえば憲法違反になってしまいますが、国民が意見として主張する分には何ら問題がありません。
むしろ、このような意見を主張することも自由でなければならないのです。

一部では「表現の自由があるのだから『このような本は出版すべきでない』という主張はすべできでない」などという主張も見られましたが、これは間違いです。

表現の自由の保障の問題はあくまで対国家の問題であって、ここでの問題ではありません。

本当の問題点

本当の問題は、このような主張が表現の自由を自ら狭めることになりかねない、という点にあります。

前述のとおり、表現の自由が認められている社会では、国家に規制されることなく、自由に自分の意見や主張、歌や本などを発表することができます。
これにより、われわれ国民は自由に批判や議論を行うことができ、その結果さまざまな意見や作品などに触れることができるわけです。
したがって、意見や作品に対する批判は自由になされるべきでしょう。

しかし、「このような歌は出すべきではない」「このような本は出版すべきでない」という主張は、内容ではなく発表そのものを批判するものであり、発表者に対して表現の自由を行使するなという主張です。

仮にこの主張に基づき、人々が問題となった表現を「自主規制」として差し控えていくようになったとしたら、表現の場(市場)はどんどん狭くなる一方です。
つまり、国民自身が表現の自由の範囲を狭めていくことになるわけです。

本当にそれでよいのでしょうか?

 

自主規制をどう考えるか

つまり問題は、憲法や法律の問題ではなく、私たちがどのように表現の自由を行使し、またはどのような場合に差し控える(自主規制する)べきかという話なのです。

自主規制による弊害

前述のとおり、国家が思想の自由市場への参入を規制することは原則として許されません。
なぜなら、表現の場である市場を規制すれば民主政治は成り立たなくなりますし、また一度規制してしまえば市場の機能が回復することは困難だからです。

つまり、表現の自由には、一度侵害されたら元に戻りにくいという意味での不可逆性があります。

表現の自由のこのような性質は、国民自身による自主規制の場面でも考慮されるべきではないでしょうか。
自主規制であっても、規制すること自体が市場に与えるダメージは小さくはないはずです。

安易に自主規制を広げてしまえば、議論の場としての市場はどんどん狭くなっていく一方ですから、慎重になる必要があります。

自主規制をすべき場合

もちろん、いかなる場合も自主規制はすべきでない、というわけではありません。

国家であっても、例外的に規制をすることが許される場合があるのは前述したとおりです。
ある表現が他者の人権を侵害する場合には、その人権を守るために必要な最小限度の範囲で、表現を規制することが可能です。

表現の自由の重要性・不可逆性を考慮し、国家が表現を規制するためには相応の根拠、つまり守るべき他の権利(表現の自由に釣り合うほどの権利)があることが必要なのです。

そこで、自主規制の場合もやはり同様に、「何を守るためにその表現を規制すべきか」が議論されるべきではないでしょうか。

 

自主規制を正当化する根拠があるか

今回問題となっている歌や本に対する批判としては、具体的には、

「過去の戦争への反省からも、軍国主義を思わせるような歌を出すべきではない」
「犯罪被害者の心情を考えれば、被告人が自分の勝手な考えを発表するようなことは慎むべきだ」

などがあります。

確かに、今回のような歌や本が発表されれば、それにより不快感をおぼえる人もいるでしょう。
また、「若者に軍国主義的・全体主義的な思想を植え付けることになりかねない」「障がい者に対する差別感情をあおることになりかねない」「被害者のプライバシーが侵害されるおそれがある」という懸念もあるかもしれません。

問題は、これらの点が表現の自由を制限するほどの理由となり得るかです。

具体的な権利侵害のおそれがあるか

上記の指摘は、最後のプライバシーの点を除けば、いずれも抽象的な可能性ばかりで、具体的に「守るべき誰かの権利」というものは想定できないと思います。

このような不快感や抽象的な「悪影響を及ぼすおそれ」だけでは表現の自由を規制すべき理由としては弱いでしょう。

では被害者のプライバシーの点はどうでしょうか。
確かに、本の出版により被害者のプライバシーが侵害されるのであれば、そのような本は制限されるべきでしょう。

しかし、上記の指摘はいずれも出版前の段階です(※現時点では出版されています)。
本の内容を見ていない段階で「犯罪手記は被害者のプライバシーを侵害するかもしれない」という可能性だけを理由に制限しようとするのは行き過ぎではないでしょうか。

(もちろん、現時点では出版されていますから、本の内容をもとに「このような内容は被害者のプライバシーを侵害するものだ」「いや、そうとはいえない」などの議論はなされるべきです。
それを元に、「今後はここまで他人の秘密を暴露するような本は出版すべきでない」という意見などが出るかもしれません。このように議論が行われることが本来のあり方ではないでしょうか。)

いずれにせよ、どのような結論に落ち着くかはともかくとしても、「表現の自由を自ら制限してまで守るべき権利があるのかどうか」という視点での議論が不足していたと思います。

 

自主規制=権利の放棄

繰り返しになりますが、「○○という意見は主張すべきでない」という主張は、表現の自由の放棄につながる主張です。
どうも、私が(法律家ではない方々の)議論を見る限りでは、この点があまり重要だと考えられていないように感じます。

自主規制を要求することは、みんなで表現の自由を少しずつ放棄し合うということなのです。
この点をもっと慎重に考えるべきではないでしょうか。

全く別の件ですが、監視カメラやGPS捜査の議論でも同じようなことを考えました。
検挙率を上げて犯罪を抑止するということだけを考えれば問題ないように思えますが、これも結局プライバシー権をみんなで少しずつ放棄し合うということです。

「放棄する権利に見合う利益があるのか?」「放棄した権利は戻すことができるのか?」という視点での議論が、やはり不足していたように思います。

表現の自主規制の問題でも、プライバシーの問題でも、この視点での議論をもっと深めるべきではないでしょうか。